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国家とサクリファイス [人]

 自分たちが思いやり予算というようなゆすりたかりまがいのことをしているからといって、同じように沖縄県民もそうだろうと思う繊細さの欠けた心。

 また、福岡空港や伊丹も危険だからという理由で、沖縄の米軍基地が存在しても良いのだとはいえない、でしょう?とりあえず平時も危険を独占して?被害を与えることが出来るのは唯一米軍関係者だけであるという認識がないようで、わざわざ極東まで来て守ってやってるんだから文句は言うなという素直な気持ちの表われですね。

 企業がグローバルに展開して、社長以下従業員も同じ民族だけではないことが当たり前になると・・・人の帰属というか、民族意識の拠るところは国家しかないのではないかとか、けっきょく自分たちを守ってくれるのは国家しかないのではないかという幻想があたかも本当のように言われだします。フランスでは極右政党が台頭しているといいますし、民族の純化とか、宗教や国民性の同一な者しか同じ国民とは認めないよという空気がこの国でも醸しだされつつあります。

 国対国の構図ですが、

 ところが、きのうの官房長官の発言は、自国民が侮辱されても彼はまるであちらの国の代理者のような発言でしたし、建前だけでも^^体を張って国民を守り抜くというような発想は持ち合わせていないようです。おそらく、ニュースを最初に聞いたときには何でそんなわかりきったことを今更言うんや、っていう気持ちだったんでしょうね。彼らの頭の中には国の全体を動かしている立派な自分たちというような概念しかなく、肝心の中身である国民の健康や財産を守るというようなことはすっぽりと抜けてしまっているのでしょう。

 ちょうど、敗戦前に「一億総玉砕」を叫んだ帝国軍人たちのように、当初の戦争の目的や意図は飛んでしまって(それもほんとうにあったのかどうかはわからないけれど)、自分たちの思う身奇麗であればそれで良しとして、国の指導者として一番に守るべきものが明らかにずれているのだと思います、指導者さえあれば国家は生き残れると。他に犠牲を押し付けてなんの恥も感じ無い精神。そんなんでいいんですかねぇ?

 

 佛が佛になる前の物語に、捨身供養、身を捨てて虎を飼うというお話があります。真理を教えてもらうために、願って虎のえさとなるのですが、その犠牲も自分のための犠牲であって、今目の前の誰かのためではありません。犠牲を強要したり、いたずらに美化することは誰かの何らかの隠された意図がそこにあるのだと思ったほうが良いでしょう。

 

 他人を救うために犠牲となることは美しいと、映画でもドラマでも絶えずくり返されていますが、磔刑のキリストから想像される教えであって、佛さまの教えからはちょっと外れているのではないでしょうか。キリストも、釈尊も国家という枠からは大きく外れた道を歩みましたしね。犠牲も求めず犠牲にもならず、というのがまともな宗教者の生き方であると思います。

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