生々流転の中で [花]
今年は桜の実の当たり年のよう
こんなにたくさん、お墓の上にも。踏むと黒くなって困っていますが・・・
すぐ横にはブルーベリー こちらも豊作でにっこり
ブルーベリーの足下には律儀にガザニア よく咲いてくれます
表の道路脇のプランターの片付けをしました。半年間頑張って咲いてくれたパンジーに「ありがとう」 梅雨が来る前に、何か植え付けしたいところです。
もう40年以上前の師父との話ですが、師父がある宗の信者さんとこんな話をしたのだと私に言いました。信者「うちの宗は『一に止まる』と書いて正しいと読む。常に私たちは正しいのだという意識を持っている。そこが他所とは違う」のだそうです。
一というのは一乗という大きな乗り物であり、教えです。「私たちは常にそこにあるのだ」というのですが、本来仏教は常示寂滅相であり生々流転しているのですから、そこに止まるという意識すら変化しています。止まれば腐るというか、命は流れることによって保たれているのです。
変わらない自分という意識すら変化していく中で、変わらないことに拘り抗えば、抜け殻だけがそこに止まることになります。昨日の自分は既に今日の自分ではない。
理想を形作ろうとする営み=行い=思惟こそが正しいのであって、形は日々変わっていく。止まるものはない。形にこだわればそのことによって正が歪んでいく。歪んだ正でものを見れば、他は間違っていると批判の対象になる。まして言わんやその正すら元々間違っていれば狂いはもっと酷いものになる。
なんと男の哀れなことよ、と考えていたら、そんな昔の師父との話を思い出したのでした。
世の男性は「俺は違う!」って抗議しないといけないですね
このお説によれば
男性=自分たちのテリトリーに踏み込まれるのがいやな(弱い)人
ですからね
ほぼ当たってます 当たっているから余計に(^_^;)