偏愛 [至言]
斎場の控え室に掛かっていたカレンダー
そして、ハリー王子とメーガン・マークルさんの結婚式でも注目を集めた「愛」
世間的に
欲を言えば
「愛されることは幸せであり 愛することはもっと大きな幸せを得る」なのでしょうが
仏教的には
「愛は執着である。執着を離れてこそ真の幸せを知る」です
キリスト教は自らが積極的に関わることによって幸せを感じ、そして得ようとする宗教だと思います。ほとんどの日本人はキリスト教徒ではないけれど、明治維新以降その考え方の影響下にあり、特に映画や歌によって感化されてきました。保守とか右翼とか名乗っている人々ですら、すべては勝ち取るものであると、西部開拓時代のようなことを言います。
そう言いながら、残念ながら、国家主権も民主主義も勝ち取る気概を見せてはいませんが。
いつもふりだけして良いかっこしいをする。良いものは勝ち取ってこそ自分のものになる!という考えかたが身についていない。
歴史的にみれば日本人の考え方?仏教は「執着から如何に離れるか」です。実際に行われることは少なくとも、それが良きものとして評価されてきたのだと私は思っています。
そして
いつまでたっても民主主義が借り物であると言われるのも、そういう考え方が上書きされていないからではないでしょうか。
西欧人から見れば、時として「得体の知れない特殊な行動をする日本人」というのも、実はそこに、すべては勝ち取るものではなく執着を離れて共有しようとする、思考や行動原理があるのではないかと思います。
偏った愛を持ち出して他人を貶めたり傷つけようとする人たちは論外ですけどね。
生々流転の中で [花]
今年は桜の実の当たり年のよう
こんなにたくさん、お墓の上にも。踏むと黒くなって困っていますが・・・
すぐ横にはブルーベリー こちらも豊作でにっこり
ブルーベリーの足下には律儀にガザニア よく咲いてくれます
表の道路脇のプランターの片付けをしました。半年間頑張って咲いてくれたパンジーに「ありがとう」 梅雨が来る前に、何か植え付けしたいところです。
もう40年以上前の師父との話ですが、師父がある宗の信者さんとこんな話をしたのだと私に言いました。信者「うちの宗は『一に止まる』と書いて正しいと読む。常に私たちは正しいのだという意識を持っている。そこが他所とは違う」のだそうです。
一というのは一乗という大きな乗り物であり、教えです。「私たちは常にそこにあるのだ」というのですが、本来仏教は常示寂滅相であり生々流転しているのですから、そこに止まるという意識すら変化しています。止まれば腐るというか、命は流れることによって保たれているのです。
変わらない自分という意識すら変化していく中で、変わらないことに拘り抗えば、抜け殻だけがそこに止まることになります。昨日の自分は既に今日の自分ではない。
理想を形作ろうとする営み=行い=思惟こそが正しいのであって、形は日々変わっていく。止まるものはない。形にこだわればそのことによって正が歪んでいく。歪んだ正でものを見れば、他は間違っていると批判の対象になる。まして言わんやその正すら元々間違っていれば狂いはもっと酷いものになる。
なんと男の哀れなことよ、と考えていたら、そんな昔の師父との話を思い出したのでした。
世の男性は「俺は違う!」って抗議しないといけないですね
このお説によれば
男性=自分たちのテリトリーに踏み込まれるのがいやな(弱い)人
ですからね
ほぼ当たってます 当たっているから余計に(^_^;)
丸ごと問われる 今 [研修会]
東京大学の高橋哲哉教授を招いての第8回講演会 来月大分市のホルトホールで開催します。
宗教者9条の会・大分が主催し、赤とんぼの会と平和を目指すオール大分の協賛を頂いています。
そのうち合わせがあって、大分まで行って参りました。
法音寺様 [仕事]
お参りの後は豆田町の散策をされるというので、ちょっと陽差しの強さが心配でしたが、
今日は曇りでしたので、昨日一昨日ほどの暑さではありませんでした。
法音寺様ご一行44名、お孫ちゃんも入って賑やかなお参りでした。お経本まで持参されて、お開帳では大きな声で一緒に読経、唱題、焼香。日頃からよくお唱えしているなぁという印象です。
ともに唱え、ともに願い、ともに行う。基本ですね。
Yさん [人]
今日はいつもブログを読んでくださっている福岡のYさん宅のご法事でした。
ご両親の33回忌と取り越しの50回忌。「もう自分も年なので10年後はどうなるか分からない。お寺さんに無理を言って取り越しのお経を上げていただきました」というご挨拶でしたが、まだまだお元気なので大丈夫!
ご両親の写真の前で、90才になる義兄の方やお孫さん達が揃って賑やかなお膳となりました。ほんとにこういう機会がないとゆっくりお話しできませんね。感謝です!
うちでも冬を越してきれいにアンスリウムが咲きました。
一日 [人]
9時から、お天気に恵まれてH家の地鎮祭を修しました。「ただいま『家に讃経の勤めあらば七難必ず退散し 七福必ず生ぜしめん』と祈願いたしました。無事に家が建つことはもちろんですが、この家で仏さまを守り、家族仲良くお互いに見守りながら生活ができるようにご精進ください」とお願いしました。
若い施主さんから「今日はお天気が良くて良かったですが、雨が降ったときはどうなんですか?」と聞かれましたが、「雨はね、幸いが降り込んで来るから良いのだと、言われてますよ」とお答えしました。先人の知恵ですねぇ。
11時からは本堂で、師父第9世佑妙院日玄上人の第33回忌法要を、玖珠町成覚寺ご住職櫻木真光上人を導師に営みました。導師の櫻木上人はまだ若いので、うちの父が亡くなったときはまだ小学生だったのだとか・・・32年の時間を感じますね。
私は父の後を継いで住職歴32年になりました。
親族と総代さんと
千葉から姉夫婦達が参列してくれたので、お経、お膳が全て終わって、ゆっくりなってから
久しぶりに母とトランプ!母にも嬉しい一日になったと思います。
昨日今日 [仕事]
昨日は午後から大分市のお寺で、宗務所の役職員会議。
お泊まりだったので、ホテルの窓から。快晴です!
そして今日は朝からお昼まで教師総会でした。
いよいよ30年度の事業が始まります。
責任を取らない [人]
リテラより
『「今度の東京オリンピックは復興五輪と言いながら、明らかに東北復興にマイナスが出ている。それなのにみんな歓迎ムードに流されているのが気になって。仕事柄、戦時中の資料を読むことが多いんですが、太平洋戦争開戦当時の日本人と重なって見えるんですよ」
オリンピックの熱狂に流される様は、太平洋戦争開戦当時の日本人と重なる-。椎名(林檎)の「国民全員が組織委員会」発言などその最たるものだろう。
柳が現在の日本社会の現状を太平洋戦争時の日本社会と重ね合わせて警鐘を鳴らしたのは今回が初めてではない。柳氏は朝日新聞の「声」欄に〈小説家・柳広司〉として投稿。その中で、治安維持法と共謀罪の類似点の多さについて触れ、歴史からの教訓を忘れてはいけないことを読者にこう促した。
「治安維持法は、成立当初、政府も新聞各社も「この法律は一般人には適用されない「抜くことはない伝家の宝刀」と明言していました。しかし、法律制定後の運用は事実上現場(警察)に丸投げされ、検挙率を上げるために多くの「一般人」が検挙され、取り調べの過程で殺されたり、心身に生涯癒えぬ傷を負わされたりしたことは周知の事実です。
この結果に対して、治安維持法を推進した政治家や官僚たちが責任を取ることは、ついにありませんでした 』
「抜くことはない伝家の宝刀」がどれだけ切れ味鋭いものに変貌したか!アベ首相が言う「9条に3項を加えても今までとなんら変わらない」ならば、敢えて加える、改憲する大義がないのです。字句の一つでも変えたならば、堤防の小さな穴と一緒でいくらでも解釈で広げられる。解釈改憲、閣議決定の罠。
公文書改竄でもトップが一公務員の仕業だと断じて責任を取ることがない事実を目にすると、歴史は繰り返そうとしているとしか思えません。彼らは決して国民を守らない。使えなくなった部下は守らないのだから。
今日は親子丼と味噌汁、野菜と海藻のサラダ、自家製白玉入りフルーツポンチ。