剥き出しのきぼう [人]
たくさん頂いた栗を使った栗ご飯
今日の婦人会料理は栗ご飯にカボチャのコロッケ、酢ものに持ち寄りのイチジクのコンポートと果物、漬け物。それに身延まんじゅう!
ご馳走です。
暑さが戻って墓地の中も花盛り コスモスにシュウメイギクにサルビア
今、時代は剥き出しの権力や力への憧れというのが「普通に表明されても良い」という風になりつつあるのではないでしょうか。草食男子・肉食女子とか捉えられる若者たちの姿があり、女子の勢いはそのままに草食男子がなりを潜め、なんだか威勢の良いことを言う男が羽振りを利かせつつある。決してカッコいいと言われる訳ではないけれど、なんとなく存在感のようなモノを醸し出す。「そんな小さなことを言うな!」とか「国家の立場で考えろ」とか・・・
例の、神奈川の障害者施設殺人事件の犯人に共鳴できる、支持すると公言するモノも現れて、弱者切り捨て優生思想の復活の道がほんのりと姿を現してきてるような気がします。
景気が上向いていないという実感、自分の取り分が増えてこないという苛立ち。増えるどころか減っていくかもしれないという不安。モノの上に心を、私たちは御神輿のように乗せて生活しているので、他者を精神的に貶めても自分が上にいるように思い込みたいという、強烈な自己保全的感情が沸き上がっているのではないかと思います。
自分が稼いだモノは自分が使いたい。テレビでも「選挙では、消費税のことが一番気になる」という若者がいました。もちろん安全保障が気になるという若者も。
自分が稼いだモノは自分が使う。それが資本主義の原則でしょうが、社会は稼げる人だけのものでないことも事実です。政治屋も宗教家も稼ぐこととは縁が無いですし。
自分が今どのような立場にあるのか?
そして今どのような立場にあるかは別にして、自分が社会的弱者になる可能性はないのか?
いわゆる健常者はショウガイ者予備軍ともいわれます。
今自分の立ち位置がどのようであれ、弱い立場の人に向けるまなざしがなければ、人間としては修業が足りないのではないでしょうか。
希望はすべての人に保証されねば希望とは言えません。