明暗 [人]
「ふれあいと対話が築く明るい社会」
今日は朝一で日田保護区保護司会設置の看板掃除作業
ブラシとバケツとぞうきんと持って集合!!です。看板のすぐ前の小川から水を汲んでブラシでごしごしやったら、思いがけずすぐに汚れが落ちて・・・・10分で終了^^ 事務局長さんが来てないので電話したら、「えっ?今日は10時からじゃなかったかねぇ」って言うjので、「もう終わりましたよ!」 すぐ駆け付けてこの後またセンターたより掲載のための証拠の集合写真をパチリ!
今日は日曜なのでご法事もあり
すぐその家の裏の、倒れた久大線鉄橋の今!を撮り、別会場でお斎になおりました。
こんな風で手つかずですから、まだしばらくはかかります。
午後は檀家のお孫さんの中学校の定期演奏会へ
お寺のキャンプに来てた子が中学3年になり卒業演奏会なので、お祖母ちゃんが「ぜひ奥さんとご一緒に聴きに来て下さい」とチケットを持って来てくれたのです。頑張り屋さんで部長を務め、みんなをまとめるという大役を果たしたようです。一生懸命やってる姿を見ると、自分の孫でもないのに目頭が熱くなりますね・・・年のせいもあるでしょうね・・・
昨晩寝ていてフッと思ったのが、靖国のことです。寝る前にネットで関連記事を読んだものですから。
よく「我が国のために戦い亡くなった方々を弔って何が悪い」と言いますが、神として祀ることの善し悪しや供養の誠を捧げることの云々を言いたいのではありません。
靖国に祀ることを善として利用する、あるいは強制する、他を排斥するための手段として使おうとする人に胡散臭さがあると思うのです。明治以降の設立ですから、幕府側で戦った者は逆賊として祀らない。この国の存立に関わったすべての魂を祀るわけではない。そういう体制護持のための機関として神社があり、利用価値がそこにある。というか、そこにしか存立価値が置かれていない。
戦うしかなくて、あるいは一生懸命お国のために働いた人たちを思うとき、「あなた方のお陰で」「ありがとうございました」と、自然に頭が下がるような、そうせずにはおけないような、誰にも強制されずに静かに魂と向き合えるような場所であって欲しい。仏教徒であってもキリスト者であっても、そうで無い人にとっても。
国とは何か、いのちとは何か、生きるとは何かを自ら学べる場であって欲しい。いろんな選択肢があって選ぶことの自由が真に保障されていることが重要ではないでしょうか?
いのちは一つしかないけれど
中には犠牲となることで、他のために死ぬことによって生きることを選ぶ者もあるのですから。
そこに深い悲しみがあったとしても
自分は生き抜いたと思える人生を選べたら、それはそれで素晴らしいことだと思います。
この間若い2人が持参して仏さまのところに安置していった、ディズニー限定品のベル
可愛いので正面に移動して安置中~~